昔々、1250年程昔のこと。
ある夜、和気清麿公が不思議な夢を御覧になりました。往来で美しい僧が托鉢をしている夢です。
何か心願があるのでしょう、その僧は一心に拝み、托鉢を続けている、そんな夢でした。
不思議な夢を見たものだと気にもとめておりませんでしたが、その数日後、また不思議な夢を御覧になります。
先日の夢に出てきた僧が往来で手に持った宝珠を眺めています。
暫くそうしていたかと思うと、宝珠を大切そうに押し頂いて懐に収め、読経を始めました。
清麿公は「ああ、あの托鉢はこの寶珠を手に入れるためのものであったのだな」と直感しました。そしてその僧の美しい読経の声に聞き入っておりますと、いつの間にか目がさめました。
続けて不思議な夢を見たものだと思っておりますと、その数日後、近所に大変霊験あらたかな尊像をお祀りしているという話を聞きました。信心の深い公は是非拝ませて頂きたいと申し出て、そのお宅に伺ったそうでございます。
一目見て公は大変驚かれました、なぜなら其の仏像はあの夢の僧侶とうり二つであったからです。あまりに様子がおかしいので主人が公に訪ねます、公はありのまま夢の話を伝えました。主人が仰るにはその仏像は一般的な観音様のような菩薩像でございますが、行基菩薩が一刀三礼して彫り上げた「聖如意輪観世音菩薩」の像であるとのこと。
公は思い当たります、夢で僧は寶珠を持っていた。宝珠は如意輪観音様の持ち物である。それを懐に大切に収めて衆生の為に読経されていた姿は、如意輪観音の徳や誓願を内に秘めて聖観音の姿を現す、まさにこの仏像のお姿ではないか、と。
これを聞いた主人は、それは正に佛様の示現された霊夢であり清麿公こそがこの尊像を祀るに相応しいお方だと確信して、この尊像を公に献上されました。
しかし今自分の屋敷にもこの仏様をお祀りするに相応しい場所も無い。どうしたものかと思っている所に勅命が下ります。
それは、各地に第二次国分寺的な寺院を建立せよ、との勅命であり、和気清麿公は摂津の国の担当に任ぜられ、寺院建立に適切な場所を探す旅に出られたのです。
ところが清麿公を亡き者にして天皇の寵愛を一身に受けようと画策しているものがおりました。
名を弓削道鏡と言い、これは憎き清麿公を暗殺するのにまたとない機会であると、刺客を放ったのでございます。
清麿公はそのようなことはつゆ知らず、今で言う神戸の辺りにさしかかります。北を眺めますと六甲山系が広がり、南は大海原でございます。
その六甲山系の中ほどに一つ頂上が平らかな山がございました。あのように頂上が平らかなれば、寺塔建立に適した地があるのではなかろうかと、一路山へと向かわれました。
獣道を歩くこと数刻、疲労が随分とたまってきた頃に沢を見つけます。清麿公たち一行が荷を下ろし、沢の冷水で疲れを癒しておりますと、道鏡の刺客達はこれこそ好機と、手に白刃をきらめかせて躍りかかりました。
清麿公は、私の命も此までか、と諦めようとしたそのとき、沢の方から突如大きな龍が姿を現しました。その様相の恐ろしさに道鏡の刺客達は這々の体で逃げ出します。
清麿公は、刺客からは逃れられたものの、龍に食われる定めかと、恐る恐る龍の現れた方を振り返りますと、龍の姿などどこにもなく、そこにはあの夢見の観音様が立っていらっしゃいました。
あっ、と思うとそのお姿は見えなくなってしまいました。清麿公は、一連の不思議な出来事はこの地に彼の観音様をお祀りする寺院を建立せよとの仏さまの思し召しであると気づき、早速に上奏して、勅許を賜り、一寺建立され聖如意輪観世音菩薩を本尊として伽藍を整えました。
寺号は龍身示現の観音さまの徳を讃える意味も含めて大龍寺と定めました。山号はこの時点では夢見の摩尼宝珠(まにほうしゅ)を讃嘆する意味で摩尼山と号しておりました。
開山から40年程過ぎた頃、若き日の御大師様、空海上人が当山を訪ねられました。
御大師様は当時、大学で学問を修めておられましたが、これで人を救うことは出来ないとして大学を出られ、その後山野に分け入り我が国に伝わった仏教を修めても、大学の学問よりは求めるべき教えに近いが、まだ自分の求めるべき教えではないとして、文化の中心であった唐に渡ってしっかりと勉強しなければなるまいと決心されたのでした。
様々な助けを受けてついに遣唐船に乗ることを許された御大師様、ところが遣唐船は波任せの船です、無事にたどり着ける保証など何処にもありません。
そこで御大師様は当山に二つの御祈願にいらっしゃいました。一つは渡航安全、一つはご自身の大願である「自分の求める教え」に出会えますようにと一心に祈られて遣唐船に乗船すべく住吉へと向かわれたのです。
そのお陰もあってか、無事に唐にたどり着いた御大師様は惠果和尚というお師匠様に出会い真言密教という教えを授かりました。
惠果和尚は自分の知る限りの全ての教えを御大師様に伝えられると、程なくして静かに息を引き取られました。御大師様は恵果和尚の遺言「早く日本に帰り、日本の人々の為にその教えを伝えよ」に従って帰国を志します。長安の都を出発し、折しもちょうど唐に到着した遣唐船に乗船して日本に帰り着いたのです。
しかし実は遣唐使には任期がございました。
必ず最短でも任期の20年は唐で滞在して様々な文化に触れて学ばなければならない契約のもと遣唐船に乗ったのです。
にもかかわらず、御大師様はわずか2年で帰国しておるわけですので、これは謂わば重大な契約違反であります。そのため帰国後も太宰府で数年間勾留される事となりました。
そうして都へと上がる許しを得た御大師様はその道すがら、当山に御登山なさいました。ご自身の大願が全て成満したのでご本尊さまに御礼参りにお越しになったのです。
一週間のご滞在の中、まず錫杖を突いて霊水を湧きださせ、報恩の修法には全てその水を用い、山中の岩肌には様々な仏様の梵字を刻み、山頂付近には亀を刻まれました。
寺伝には恵果和尚への報恩のために、恵果和尚のお寺、青龍寺が幾久しく栄えるようにと長寿吉祥の象徴である亀を刻まれたそうでございます。ですからこの亀はちょうど中国は長安の方を向いて居るのでございます。
この弘法大師様の再度御登山から、誰とも無く再度山と呼ばれるようになり、今ではそれが正式な山号として定着するに至っております。
寺伝によりますと弘法大師様は再度登山され本尊を拝まれた後にその時お参りされておりました人々に向かって「この山誠に菩薩の霊區、凡境にあらざるなり。(この山は観音菩薩の聖域であって、たぐいまれな場所です)」とこの山を讃えられたそうです。
そのお言葉通り当山には奇瑞霊験の伝承が多いのですが、その中でも天授元年(1375年)御円融天皇が中風を煩われるという事件がございました。中風とは今で申しますところの「脳梗塞」という病気でございます。
寺伝によりますと「後円融帝疾有り。諸山名徳に之を禳わしむ。効あらず。乃ち妙に詔し、其の法を試しむ。甫て七日にして疾愈ゆ。皇情大いに悦び、宸翰寶器を賜って、以て之を旌異す(後円融帝が病にかかられ、様々なお寺の大徳とされる高僧に病気払いの祈祷をさせたが効果がなかった。そこで善妙上人に祈祷の勅命我下り伝来の病気平癒の修法を行ったところ七日で病が癒えた。後円融帝も大変お喜びになり、御親筆や宝物を善妙上人に送り謝された)」とあります
また口伝では善妙上人はその時にさらし一反を壇前に置いて祈願し、そのさらしを献上したと伝えられております。後円融天皇がそのさらしを枕に巻いて寝たところ、たちまちに中風が平癒したとのことです。
それ以来当山は中風除けのお寺、病気平癒のお寺として全国よりお参りを頂くようになりました。
この病気平癒の秘法は善妙上人の頃から今も変わらず大龍寺住職が受け継いでおります。
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